プロフィール詳細

○簡易なプロフィール

 

■眞田一志(さなだかずし)

愛知県田原市出身
衣笠小学校
田原中学校
成章高校
千葉大学法学科

 

■23歳のとき個別指導塾の教室長となる。生徒や従業員との関わりを通して、人はいかにして変わることができるのか、に強く興味をひかれるようになる。

 

■仕事をしていく中で、自分の考えや価値観を基づいた学習塾を立ち上げたいという気持ちが強くなり、リーディングエッジを開業する。

 

 

○詳細なプロフィール

 

■幼少時代

未熟児で生まれ、体が弱く毎週風邪をひいて高熱を出していました。このまま死んでしまうのではないかと思うこともあったようです。母の愛情をたっぷり受けたせいか、かなりのお母さんっ子になり、母の姿が見えないと泣いているような子でした。

 

妹が2人の3兄弟で育ち、いとこも皆、女でしたから、よくおままごとをして遊んでいました。男ですが、おままごとは決して嫌ではありませんでした。むしろ一番楽しく遊んでいたくらいです。男脳女脳テストをすると男脳20%女脳80%という結果が出るのですが、この幼少期の行動習慣の影響が大きいのかもしれません。

 

 

■小学校時代

泣き虫は治らず、少しでも嫌なことがあると泣いていました。しかし、その頃、ダウンタウンさんや吉本新喜劇がテレビでやっており、「いじられることは逆にかっこいいんだ」とお笑いに触れることで価値観は変わりました。それにより、次第に嫌なことがあっても泣かなくなってきました。

ダウンタウンさんは今でも大好きで、もう今ではテレビ自体をみることはほとんどなくなりましたが「ガキの使いやあらへんで」だけは毎週欠かさず見ています。以前放送していた松本人志さんのラジオ番組「放送室」は全部録音してあり、毎晩、寝るときはその放送を聴いて寝る生活を10年以上続けています。もう話を暗記しているので、松本さん本人より過去の松本さんのことを知っていると思います。

 

身体は相変わらず弱く、小学3年生のときにぜんそくを発症しました。明け方になると咳き込み、息ができなくなります。なんとか起き上がって全身に力を入れて息をするのですが、眠いことは眠いので、ああ、もう息するのが面倒だ、とできるだけ息をしないようにしていました。

このときのぜんそくは自分の中では大変なことなかったのですが、あるとき風邪をひいて病院に行くと、先生が「ひどいぜんそくじゃないか。このままでは死んでしまうぞ。」とたくさん点滴を打ち始めました。このとき、死ってとても苦しいイメージだったけど、たいしたことないんだな。結構死へは簡単に行けそうだなと感じました。

 

 

母は今思えば教育熱心だったと思います。通信教育や習い事をたくさんさせてくれました。習い事で嫌いだったのはスイミングです。子供にとってはプールは深いですし、25メートルは遥か遠くのように感じました。毎週火曜日は嫌で嫌で、わざと熱を出してお休みしていました。この時、体温を意識してあげる技を習得したのです。

習って楽しかったといいますか、自分の人生を振り返った時になくてはならない存在だったと思えるのがそろばんです。そろばんを習うことで、計算が速くなるのはもちろんですが、最高MAXに集中するとどうなるか、どうやって集中力をMAXにもっていけるのか、3分を体感で10分にする方法、右脳の使い方(現在では右脳と左脳で分けるのは違うという説もありますが)などなどを習得できました。

大学もそろばんを習っていたおかげで第一志望に入れましたし、そろばんで得た能力は今でも私の大きな財産となっています。

 

■中学時代

部活は剣道部に入部しました。

2年生の新人戦の時から、ずっとレギュラーだったので、部の中では強い方だったと思いますが、「自分には合ってないなあ」と思っていました。とはいえ、そこまで運動神経がいいわけではないので、好きだからという理由で野球部には入らなくてよかったとは思っています。合わなかったですが、今思えば剣道は最良な選択だったと思います。

 

勉強は、中学生2年くらいまではそこそこの勉強していました。当時の私の価値観は、テストでいい順位をとることよりも、部活が休みになるテスト週間でいかに遊ぶか、ということにありましたから、時間を目一杯使って勉強することはありませんでした。

 

このとき意識していたことが、いわゆる費用対効果というものです。1時間勉強していかに多くの成果をあげるか。そこで狙うゾーンも決めていました。例えば70点を90点のレベルに引き上げることはそんなに労力はかかりませんが、90点を100点に持って行こうと思ったらテスト全範囲を細分化し、精度を完璧なレベルまで上げなくてはいけません。時間と労力が桁違いに必要になってきます。そこで狙うは、90点前後。それが取れれば自分の中ではオッケーで、100点を狙う勉強はしませんでした。

 

しかし、中学2年生の冬に転機が訪れます。これは自分の底の浅い人間性を変える出来事にもなりました。詳しいことはこちらの記事をご覧ください。

 

勉強に目覚めた出来事

 

その出来事以降、いい点数、いい順位が取れるようになりました。

 

 

■高校時代

高校に入学して開放的な気分になった私は、勉強もせず、遊んでばかりいました。友達と遅くまで電話したりして、毎晩寝るのは2時3時。学校へは寝るために行っていたようなものです。

 

あるとき今数学は何やっているんだろうと、眠気まなこで先生の話を聞いていたら、先生が何をしゃべっているのか全くわからない、何がどうなっているのかわからなくなっていました。これはまずいと授業でわからなかったことを先生に質問に行くと、「なんだお前、何一つわかってないじゃないか。やばいな」といって先生は去って行きました。ああ、今見捨てられたぞ、とそれはしっかり認識できました。

 

そして、自分は勉強できないヤツという空気がクラスで出来上がっているのも感じ取りました。下からの順位がトップテンのヤツに一緒に頑張ろうなと言われる始末(笑)。さすがの私もこれはまずいと奮起することにしました。でも悲観はしていなかった。250人学年でいい順位を取れていたんだから、自分はやればできるという自信があったからです。やっぱり過去の成功体験はとても大事です。だから子供たちには小さいうちから成功体験を積み重ねてほしいと思っています。

 

 

まずは戦略を立てました。全てをやろうと思いましたが、高校は中学とレベルが違いすぎて到底無理であることがわかりました。そこでまずは数学一点突破を目指しました。数学はみんな苦手としていたため、これなら追いつき追い越すにも時間はかからないだろうとの判断です。あと、私を見捨てた先生を見返したいという気持ちもありました。

ただ、やる気はあるもののなかなかうまくいきませんでした。その理由は中学時代の勉強の方法論が通用しないからです。なんでうまくいかないのか、どうしたらうまくいくのか、仮説を立てて、2ヶ月間くらいかけてそれが正しいのか自分の身をもって検証することを繰り返していました。9ヶ月くらいかかってようやく自分のやり方を見つけることができました。

方向性が見えたらあとはこっちのものです。そこからたくさん努力して数学は苦手科目から得意科目になりました。自分の数学の点数があがったのはもちろんですが、数学が赤点で留年の危機に陥った友達に数学を指導して、数学順位学年1位を取らせたりできるようになりました。

 

私の「教える」原点

 

 

あとはこれを他の科目に波及させるだけです。他の主要科目、国語と英語を頑張ってとうとう全国の模試成績優秀者に自分の名前を載せることができました。当時は個人情報がそこまで厳しくありませんでしたので、全国の模試優秀者は、名前、学校、偏差値、全国順位そして志望大学が模試の結果と同時に返される解説書の後ろに掲載されるのです。意外とみんなここを見ていて、他のクラスの友達から「なんでお前載ってんの?お前のことバカだと思ってた」そういわれてとうとう勉強ができないというレッテルは剥がせたなと嬉しかったです。

そしてこのころには、私を見捨てた数学の先生は授業中に「長年受験生を見てると誰が志望校に合格するかわかってくる。そうだな・・・眞田はまず合格するな」とおっしゃってくださいました。ああ、先生はとうとう自分を認めてくれたんだと嬉しく思いました。

実は先生が私に冷たく当たったのは初めだけでした。私は毎日のように数学のわからない問題を先生に聞きに行っていたのですが、いつも丁寧に教えてくださいました。数学ができるようになったのは先生のおかげです。本当に感謝しています。

 

 

■大学受験

私は中学の頃から哲学に大きな興味を持ち、哲学の勉強をしたいと思っていました。しかし、大学にお金をかけて行って哲学を勉強するのは親に申し訳ないと思い、法律科に進むことにしました。法学ならつぶしがきくだろうとの判断です。大学に求める条件がもとからはっきりしていましたので、志望校は比較的すんなり決まりました。

 

条件は以下の通り

・家が貧しいので国立大学であること
・法学部があること
・哲学の授業を単位としてとれること
・色々学びたいので総合大学であること
・卒論はまっぴらごめんなので、卒論がないこと
・二次試験の方が得意なので、二次試験の配点が高いこと
・数学が得意なので、試験科目に数学があること

 

これだけあれば勝手に志望校は決まります。そして高校の時、特に好んで著作を読んでいたある日本人哲学者が志望校で教鞭を奮っていることを知り、受験する大学はすんなりと決まりました。

 

 

志望校が決まったのはいいものの、入試までの1年間は常に不安に付きまとわれていました。というのも私はアルバイトを2つ掛け持ちしていたからです。学校はアルバイト禁止でしたから内緒でやっていました。予備校は通っていません。アルバイトで得たお金で参考書を買ってそれで勉強する。我ながらとてもたくましかったと思います。入試1週間前までアルバイトを続けていました。

受験期には周りはみんな勉強に集中しています。でも私は机に向かう時間は1時間くらいで、あとは隙間時間を見つけて参考書をひろげる程度。肉体的、精神的にとても大変でしたが、このときに効率を徹底的に思考するという経験ができましたし、何より、この困難な状況の中で目標を達成できたということは大きな大きな自分の自信となりました。

未だにこの大学受験の経験は自分を支えてくれています。

 

 

■大学

明確に覚えていますが、2回目の法律の授業のときです。そもそも法律とは何かという講義を教授がしてくださったのですが、この講義がとても素晴らしく、「法律ってそういうことか!これは自分が学ぶべき学問ではない!」と身体にサンダーが走りました。

もともと法律に強い興味があったわけではありませんでしたし、興味が移ろいやすい自分の性格を認識して、総合大学を選択した私の選択はやはり正しかったです。法律は違うと認識したあとは、可能な限り法律とは関係ない学問の単位を取得しました。薬学、経営学、経済学、政治学、この辺りが特に面白かった。

 

 

20歳になったとき株式投資を始めました。高校のときから株取引をしたいと思っていたので、20歳になったらすぐに証券会社の口座を開設しました。授業なんかそっちのけで、ずっと株価チェック。今思えばバカなことしていたなあと思いますが、このおかけで世の中の流れに敏感になることができましたし、上場会社について詳しくすることができました。そして、この株取引の経験が私の考えを大きく変えることになります。一気に私の価値観がガラガラと音を立てて崩れていった瞬間が訪れました。それが

 

元ライブドア社長堀江貴文氏の逮捕
シャープの経営危機

 

この二つです。堀江さんは経営するライブドアを破竹の勢いで成長させ、まさに時代の寵児でした。しかし、逮捕されてしまった。シャープも増収増益ですごい勢いでした。亀山工場をつくって、亀山ブランドとして高品質な製品を売り出し始めましたが、気づけば一瞬で経営不振に。シャープに就職したら一生安泰だろうと思っていましたが、そんなこと全くありませんでした。その他にも四季報(上場企業のすべての会社が掲載されている本)に載っていた会社がどんどんなくなっていきます。

 

 

このとき頭に浮かんだのが、平安時代の藤原頼通です。頼通は摂関政治の最盛期でしたが、後三条天皇によって、一瞬で没落してしまう。父親の道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という句を詠みましたが、全盛から一気に底へ落ちてしまった事実を知ると、ただただ虚しいばかり。

勢いがあってもいつかは衰えてしまう、それが世の真理なのだ、それを認識させられました。諸行無常、盛者必衰、栄枯盛衰、たけき者も遂には滅びぬ、平家物語の言葉がグルグルと頭の中で回っていました。そして、今が調子いいからといってその会社に頼るのではなく、自分の力で生きていけるようにしなくてはダメだ。それを強く思いました。

 

 

■大学卒業後

大学のときは、パチンコ、学習教材販売会社、家庭教師、塾講師のアルバイトを経験しました。勉強を教える仕事はとても楽しかったです。自分が教えた子の成績がどんどん伸びて、嬉しそうな顔を見るとこちらも嬉しくなります。自分のサービスによって、喜んでくれる人がいる、自分の力を必要としてくれる人がいるというのは、報酬に代え難いやりがいを感じました。

どうやら自分は勉強を教えることがそれなりに得意そうだということに気づいてからは、自分で学習塾を始めようかと思い始めます。

 

その旨を当時お世話になっていた学習塾の社長に伝えたところ、「いきなり始めてもうまくいかないと思う。それなら教室長として店舗を任せてあげるがどうか」と提案をいただきました。経験のある方がダメだと思うのなら、たぶんうまくいかないだろうし、裁量権の大きい店舗責任者をやらせてもらえる事は大きな魅力に感じましたので、その提案にありがたくのらせていただきました。

 

仕事は面白かった。

 

自分でいいと思った事はすぐに実行に移せますから、考えるより先に行動するタイプの私はこの環境が大変有り難いものでした。おそらく(というか、絶対)、私の行動に対して、「それは正直やめてもらいたいな」、と思う事が社長にはあったと思いますが、私の提案に関してはほとんどゴーサインを下さいました。こういった懐の大きい方と出会えた事は、私にとっては幸運でした。

 

 

ちなみにアルバイトとしてその塾に働き始めた時の教室長も尊敬できる方で、自分の意見を押し付ける事は一切しませんでした。常に私の行動を見ていて、こいつはこういうことをしたがっているな、と読み取ったら先取りして私の動きやすいような指示をくださいました。この方との出会いも大きかったと思います。働いていて本当に楽しかったですし、リーダーとは何たるかを背中で教えてもらいました。当時の教室長との出会いがなければ私は塾の先生になろうとしていなかったかもしれません。

 

 

素敵な上司に恵まれ、環境は申し分なかったのですが、次第に自分でやってみたいという気持ちが強くなっていきました。私が教室長として自由にやっているとはいえ、限度があります。会社はある塾ブランドをフランチャイズ展開していたため、絶対に変えられない部分はあるのです。たとえば、1回の授業時間を変えたりすることは出来ず、本部の規定通りにしなくてはなりませんし、1対1で決められたプランを1対5で授業したりすることはできません。

 

もっとよい教育サービスを提供したい、あれをすればもっとよくなるし、こういった形の授業も展開できたらいいと思う、そんな考えが浮かんで来たら、私の性格上、それを実行せざるをえません。私がしたいことをすべてしようと思ったら、完全に裁量権が自分のものとなる、自分の塾を立ち上げるしか選択肢はありませんでした。

 

 

■リーディングエッジ開業

2014年7月、どこのフランチャイズにも属さない学習塾をスタートさせました。初めは生徒も少なかったですが、初めに集まってくれた生徒がどんどん成績を上げていってくれたおかげで、評判が広がり生徒が増えていきました。

今は、素敵な生徒、保護者様に恵まれて、毎日楽しく仕事ができています。私は本当に幸せです。ありがとうございます。

 

 

思えば、今こうして私が塾を開いているのも、小さい頃から母が積極的に学ぶ機会を与えてくれたことが大きいかもしれません。当時は毎日のように習い事があって、正直、もう嫌だ、遊ぶ時間が欲しいと思っていましたが、今はそのような環境を作ってくれた親に感謝しています。学びとは、学んでいる最中はその価値に気づかなくて、後になってから価値に気づくものなのかもしれません。

この塾に通う子にもせめて卒業してからでもよいので、この塾に通うことの価値を見出してもらえるように、よい教育サービスを提供していきたいと思います。

 

 

リーディングエッジはどんな塾と聞かれたら、どんどん変わっていく塾と答えると思います。実際に開校当初から授業の様子はかなり変わってきています。そもそも、こうあるべき、といった枠組みは持ち合わせていません。学習塾は一斉授業であるべき、とか個別授業であるべき、とかそれは私にとってはどうでもよいことです。大切なことはその場その場で必要とされていることを読み取って、圧倒的価値のある教育サービスを提供していくことにあると思っています。

 

おそらく、これからもリーディングエッジはどんどん姿を変えていくと思います。変わっていくことがリーディングエッジらしさだと考えています。ぜひ、これからどんな変化を遂げていくか見守っていていただければと思います。

 

それでは、どうぞよろしくお願いいたします。

 

長い時間、このプロフィールにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

眞田

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