私は他の人と比較すると、自分の主張、考えを持っていて、周りの意見に流される方ではないと思います。今、ちょっとかっこよく言ってみましたが、これはかっこ悪くいったら頑固ってことです。
でも、そんな私ですが、多様性は認めているつもりです。他の人が私と反対の意見を持っていても、それを覆そうとは思わないし、確かにそういう考え方もできるよね、そう考えます。
世の中には99%の常識人と1%の非常識人がいると思っていましたが、どうやらそうではないようです。大人になると「これが常識だ」と考えてる部分が、私が思っていた以上に人それぞれで、乖離があるのに気づきます。私の「常識」が他の人の「常識」であるとは限らない。
育ってきた環境が違うから〜好き嫌いはいなめない〜
という山崎まさよしさんの「セロリ」に歌われている通りです。
だから、例えば教育でいったら、体罰ありなしみたいな議論がありますが、体罰が必要で効果的と思うならしたらいいじゃない?と思います。体罰は私は暴行罪にあたると考えますが、ダメだった子がよくなったら親も子も感謝するでしょう。生徒に手をあげることで、生徒を更生させた成功体験があって、それに再現性があると感じているならやったらいい、と思います。ただ、僕はやらないけどね、というだけの話。
この塾に通わせてくださっている保護者様でも、勉強への関心度はそれぞれ違うと思います。テストはできるだけいい点を取るべき、最終的には100点を取るべき、と考えていらっしゃる方がいるかもしれないですし、一方、勉強はそれなりの順位がとれればいい、部活も頑張ってほしい、と考えている保護者様もいらっしゃるかもしれません。この塾は原則週3ですが、部活を頑張るために週2で通っている子もいます。
勉強を頑張るのも、部活を頑張るのも、どちらも理がありますし、どちらも正しいと思います。だから当塾はどちらの考え方でも応援します。
以前、塾の先生たちが集まって模擬授業勉強会をしました。私は他の先生の授業がどんなふうにするか興味があって、これに参加させてもらいました。それぞれのベテラン先生の授業をみて、授業が終わるたびに、みんなで修正点を指摘し合います。それぞれが意見しあうのですが、私はただ黙っているだけです。修正点が浮かんでこないのです。みんな素晴らしい授業で私に言わせたらほとんど100点なのです。それぞれの先生らしさがでてていいなあ、しか感想は無い。
授業をみてすぐに「ありゃ、これはあたしの考え方と全く違いますなあ」と思いましたから、私の価値基準と他の先生との価値基準にずれが生じている時点で、私の指摘は指摘になりえません。「先生は先生で先生のことを必要としてくれているお客様がいますし、私は私で、私の提供する教育サービスを必要としてくださるお客様がいますからそれぞれで頑張りましょうね。」となるだけです。
人生、いろいろ。 人も、いろいろ。
結局人はそれぞれの価値観や哲学のなかで生きていくしかないのだから、他者のそれらを大切にするというか諦念の感情をもつというか(言ってしまった)そういった心構えをしておくとちょっぴり肩が軽くなります。